平成18年8月16日
(協)ナガノ駅前センター
はるか昔、天竺(てんじく)の毘舎利国(びしゃりこく)で、お釈迦(しゃか)さまが法を説いていらっしゃる頃、月蓋(がっかい)という大富豪がおり ましたが、強欲で信仰心もなくお釈迦さまの言葉に耳を貸そうとしません。すべて思うとおりなる長者でしたが、子宝に恵まれず51歳にしてやっと一女を得た ので、大層よろこび「意の如く得た姫」とばかり「如是姫(にょぜひめ)」と名づけ、かわいがりました。
姫は光り輝くばかりの美しさをもって成長し、13歳のとき国王の第一王子から妃としたいとの命が下りましたが、長者は何度もお断りしておりました。
このころ国内に疫病がはやり、姫も病の床に伏し手厚い看護も効なくほとんど息が止まるに到りました。長者は娘を救うためお釈迦さまになんでもいたし ますからとお願いをし、信心の道に入り、西方浄土の阿弥陀さまにお祈りを捧げ、姫はようやく救われるとともに、全国の多くの人々も息を吹きかえすことがで きました。長者はお釈迦さまの教えに従い金の阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)をはじめ勢至・観音の二菩薩(一光三尊)像をつくり信心に勉めました。
つまり、長者は如是姫への愛を通じて姫のみならず多くの人々を救い、自分も救われたことに目覚めたのであります。その功徳により長者は数百年後に百 済の聖明王に生れ代わり、この一光三尊仏を欽明天皇の13年(552年)に、わが国最初の仏像として経巻とともに奉献されたもので、日本の仏教の源といわ れています。しかし仏を信じようとしない物部(もののべ)氏により難波(なにわ)堀江へ投げすてられてしまった。
この聖明王の生れ代わりが後の本田善光となって浪速の濠辺を通りかかったとき、お堀の中から阿弥陀如来に呼び止められるのであります。一光三尊仏は善光の背中に飛び移られ、信濃の国の芋井(いもい)の郷へお連れするよう命じられたと伝えられています。
以上が善光寺縁起の最初の方に述べられている「あらまし」の一部でありますが、善光はその功により、甲斐の国司(くにつかさ)に任じられたといいます。
日本への仏教の渡来のうち、なぜ長野に善光寺ができたかを解き明かすには、どうしても如是姫なしには説明がつかないと思います。如是姫が生まれ悪疫にかかって瀕死状態にならなかったら今日の善光寺はなかったと言われる所以であります。
感謝の心を忘れずに力強く生きながら、心に安らぎを与えてくれる如是姫には、現代社会に忘れ去られた何かを感じさせてくれます。さしずめ、米国の「自由の女神像」に似たものがあるかもしれない。